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和牛の育種改良(素人ブリーダーの私見)-第6回- |
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2014年4月15日
6、和牛牛産地の興亡 種雄牛の力② ~但馬編~
現在の和牛の基になっている、兵庫の田尻、鳥取の気高、島根の第7糸桜について、これらの牛が、なぜ、大きな力を持っていたのでしょうか?
私が初めて子牛市場で買った牛は「福芳」(熱土井の息牛)の娘で被毛の良い牛でした。熱土井の名前のもとになる「あつた蔓」の熱田とはどんなところかと、訪ねて行ったことがあります。今はもう住む人はなく、廃校になった小学校があり、すすきがそよいていました。
熱田に牛がいて、種雄牛「熱田」や「第2熱田」がいた当時、つまり、兵庫で和牛の登録が始まった大正10年(1921年)頃、但馬ではほとんどの農家が雌牛を飼育し、その谷筋や集落ごとに種雄牛がいて、雌牛を引き付けて種付け(自然交配)していました。種雄牛の数は、多い方の数十頭がいたと思います。
あつた蔓やふき蔓の造成が行われ、田尻号が生まれたのが1939年(昭和14年)。田尻号の晩年に田尻の母ふく江との親子交配で田福土井が生まれ、この子孫が田安土井、安美土井と続き兵庫の主流となりました。
他にも菊美土井、門芳、五十鈴などの田尻の息牛が但馬で大活躍。田尻号はその雄子牛のほとんどが種雄牛として供用され、兵庫だけでなく全国で供用されました。
兵庫県但馬地方は、外国種導入による雑種造成が行われなかった地域です。そのことが、他県との牛の違いが明確で、牛の質、肉質において他県の追随を許さない優れた形質がありました。
日本古来の在来牛としては、他に見島牛やトカラ牛(伏見先生コラム№69、70)がいますが、但馬牛は飼育頭数の多さ、つまり遺伝的資源の豊富さが、その後の近親交配などの改良を支える家畜の力を示しました。
この肉質における但馬牛の優位性は、昭和30年前後に人工授精が、昭和40年代に凍結精液が普及し、昭和50年から家畜改良事業団が精液配布を開始してからもしばらくはゆるぎないものでした。
その頂点は、安谷土井の息牛の谷福土井、安福、菊谷のころではないでしょうか。
しかし、この時期を境に、県外の兵庫系は活躍を続けますが、但馬牛の和牛に占める位置に変化が起き始めてきます。
各県や家畜改良センター独自の兵庫系種雄牛の造成が行われるようになり、最近では家畜改良事業団もとうとう兵庫からの種雄牛候補の導入を控えるようになりました。
但馬(美方)では、今も美方産以外の種雄牛を使わず、地域内だけの繁殖をしています。
(つづく)
A5ファーム 日下部俊雄
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