その昔、旧南部藩時代から明治初期には役牛として岩手県内に2万頭の南部牛が飼養されていました。それだけ多くの南部牛が飼われていた背景には、南部藩の過酷な地理的特徴があります。南部牛は山道の旅に適していたため、急峻な山道が多い北上高地山系を山越えし、沿岸部の産品(塩、魚、鉄等)を3〜4日間かけて内陸に運ぶという、三陸海岸と北上盆地を結ぶ役割を担っていました。このときに通ったルートが”塩の道”とよばれ、いまも岩手県の各地に残っています。
また、岩手県と言えば明治期には製鉄の都市釜石が有名になりましたが、それ以前から南部地方は鉄の産地であり南部鉄器を特産品として大量に生産していました。その最大の出荷先が江戸でした。そして、ご想像のとおり鉄器は牛の背に乗せ、遙か500km以上も離れた江戸へ陸路で運んでいました。南部鉄器を背にした牛は、盛岡から江戸まで1か月ほどで到着しました。そして江戸で鉄器を売り払った後はその牛を関東の農家さんに売り、盛岡へ帰ったそうです。肢蹄の力強い南部牛は鉄器とともに江戸で大変人気があったようです。
「田舎なれども南部の国は、西も東も金の山」−民謡・南部牛追い唄にうたわれるのはこの南部牛のことです。南部牛の大きな貢献により南部藩は多くの恩恵を受けていました。
この”塩の道”、南部牛のことを調べながら「な〜んか聞いたことあるよな〜」と思っていたところ、よくよく考えてみたら小中学生時代の私の通学路が”塩の道”でした(驚)。陸中盛岡の繁栄と民衆の生活を支えてきた南部牛と鉄器と塩の道。今度盛岡へ行ったときにはもういちど塩の道を歩いてきたいです。