戦時下に物価統制が厳しくなると、昭和16年には牛についても最高販売価格が規定されることになりました。
最高販売価格の制定によって登録への関心は大いに高まり、登録実施を希望する県が急増し、結果としてこの価格制定が登録の普及を急速に進めるという役割を果たしました。
当時の中央登録団体の登録審議会は農林省官吏、学識経験者により構成され、実務に携わるものはおらず地方の現状は考慮されることがない状態でしたが、その一方で審議会の結果は絶対的なものでした。このようなやり方に第一線の登録関係者は反発をつよめていき、昭和19年、中央が一方的に決定した登録規定の改正と登録料金の値上げは地方の反発をさらに高めることとなりました。
このような中、終戦後の昭和22年7月にGHQから農業団体の解散命令が出され、全体主義的な農業会は中央、地方共に23年8月を期して解散しました。
そして中央への反感も高まっていたこの時期、民主化の影響も受けて和牛農家による自主的運営の和牛登録団体を設立しようという声が起こり、ついに、民主的な和牛生産者を会員とした登録機関、全国和牛登録協会が誕生しました。
・・・登録協会の激しい変遷や戦争、さまざまな混乱と激動に見舞われたこの時代・・・昭和十九年八月・・・中央畜産会と政府により「和牛は既にこれを一つの固定種と見なしても実際上差支えない程度にまで改良されて来た」として和牛が規定されました。
こんなときだったのか和牛が生まれたのは・・・審査基準が整ってから7年、中央登録に大ブーイングが起こり、まだ和牛登録協会もできる前の・・・微妙??(^_^;)