標準体型が作られてからは、その目標に到達すべき選択淘汰の基準として審査標準が作られ、和牛の造成固定をすすめるために登録制度が作られ始めました。大正9年に鳥取県が先駆けて行なった登録は、大正10〜15年にかけて中国、九州の一部の県へ広がっていきました。 各県の本登録を受けた牛、即ち種として固定されたものと認められた牛には県毎に名称がつけられました。すなわち兵庫県の但馬種、鳥取県の因伯種、島根県の島根種、岡山県の備作種、大分県の豊後種などです。
その後、昭和2年からは中国和牛研究会が始まり、登録事業、審査基準、審査実技などに関する指導や相互研究が行われ、登録を実施する県が広がり、また従来の標準体型、登録規定も改正されていきました。
注:但馬牛という名称は改良される前に飼われていた日本の原種に対しても呼んでいたようですが、現在の但馬牛はこの時代に本登録を受けた牛の直系の子孫となります。 |