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ゲストのコラム
「牛飼いの嫁より愛をこめて (第2話)」

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2011年6月21日

大震災発生から

 地震発生後、通常なら45分の道を4時間かけて、家にたどり着いたのはまだ明るさの残る夕方の5時。家に帰るなり、すぐに牛舎に行きました。奇跡的に、牛舎は無事!山の牛舎で爪切りをしていた夫も、無事です。ほっと胸をなでおろしました。

 しかしその日から、停電と断水、電話の不通という日が1週間も続いたのです。

 大量の水を飲む牛にとって、断水は一大事。幸い家の前の牛舎では、山の湧水を高低差で利用していました。しかし水道水利用の牛飼いMさんは、毎日我が家の山水を500ℓのタンクで6回、なんと3tもの水を運んで、牛たちに飲ませていました。

 一方、山の牛舎は井戸水のポンプくみ上げ式で、電気が止まればお手上げです。発電機を借りてきてなんとか給水を続けました。この発電機で、地震の翌日に、1時間だけテレビを見ることができました。被害の情報はラジオで得ていたものの、想像を超える津波の映像を見て絶句しました。渦中にあるはずの私たちは、その状況が全く見えないのです。被災者こそが、もっとも必要な情報から遠いことを、痛感しました。

 なんとか、牛たちに水を飲ませることができたものの、今度はガソリンと餌不足が大きな問題となって迫ってきました。ガソリンが尽きれば発電機も止まり、牛たちへの水の供給もできません。さらに飼料基地の石巻は津波で壊滅。餌の補給のめどは全く立ちません。稲わらと乾草の多給と濃厚飼料を節約しましたが、当時は牛舎に入るのがとてもつらかったです。牛たちがざわつきながら、腹がすいた事を目で訴えるからです。

 夫も牛飼い仲間たちも必死でした。関西の知人にまで電話をかけ、餌をかき集めました。タンクの底が尽きかけたときに、なんとか餌が到着した時は、本当に胸をなでおろしました。

 今回、地震に追い打ちをかけたのは、原発事故でした。我が家は原発から北西方向に67キロ。私などは、次々と起こる水素爆発のニュースに震え、避難の荷造りまでしました。しかし、夫は「俺は、牛を置いては逃げない」と言い切ります。私たちが逃げたら牛たちは・・・・。(続く)

堀米 薫
HP: 牛飼い&米作り 百姓 堀米の部屋
絵本: チョコレートと青い空

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